前提
現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の歴史がふわっとしていると、UMAの痕跡と古代人の痕跡の判別が不明瞭になるので、まずは、現生人類の時代以降の仮説を作っていく。
現生人類の痕跡はUMAと違い、比較的、多くの伝承が残されているとはいえ、過去の事実が全て明らかになっているわけではなく、様々な学説がある。
まずは身近なところに絞り込んで、日本人の起源がどうなっていたのかについて、独自考察を行っていきたいと思う。もちろん、素人の考察なので、随時更新しながらブラッシュアップしていくものである。
古代の範囲
古代と一言に言っても、年代の範囲は相当広い。まずは、義務教育で習った範囲で、文献としての記録が少ないところをターゲットにしたいと思う。
その観点で行くと、古事記や日本書紀が編纂された時代以降は、ある程度、文献が残されている。そのため、今回は、縄文時代から飛鳥時代までを古代の範囲としていったん区切ろうと思う。
初期の仮説
今回の試みを始めるにあたり、叩き台となる仮説を以下の通りに考えてみた。きちんとした検証は行なっていないので、荒削りで荒唐無稽な点がかなり多いが、あくまで叩き台として書いてみた。
3万8000年前
現生人類は日本列島に到達した。この時、すでにネアンデルタール人やデニソワ人の様な人類亜種がユーラシア大陸に生息していた。現生人類の力だけで、日本列島に到達したのか、人類亜種との交流しながら、広がっていったのかは不明だが、当チャンネルでは、人類亜種との交流の中で急速に生息範囲を広げたと仮にしておく。
日本列島に到達時は、第四氷河期であったため、氷期の海面の低下によって、大陸棚のエリアは現在と違い広大な陸地となっていた。ただし、朝鮮半島と日本列島は最も海面が低下した時期といっても、対馬海峡は完全に地続きとはなってはいなかった。そのため最初期の日本人の流入経路は、①オホーツクから北回りで地続きに侵入したか、②船を使って大陸側から対馬海峡経由で侵入したかの2パターンが考えられる。
当チャンネルでは、それぞれから進出した人々をミトコンドリアハプログループ(mtDNA)で以下のように考えており、彼らが交流する中で、縄文文化が形成されたとしている。
- 独自仮説:オホーツク系:N9
- 独自仮説:大陸から船:M7
縄文時代①(1万2000年前ー7000年前)
縄文時代は日本列島全域に縄文人のコミュニティが広がり、季節ごとの自然の恵みを得ることで、定住しながら、持続的な社会を実現していた。一方で、畑作や稲作が始まる前であったが、ある程度の階級社会は存在しており、食糧や装飾品を巡る争いも存在したのではないかと当チャンネルでは考えている。
初期の縄文文化は、鬼界カルデラの噴火や縄文海進によって大きく変化する。
独自仮説:縄文人は高度な社会を形成していた
縄文時代②(7000年前ー5000年前)
鬼界カルデラの噴火によって、西日本や朝鮮半島南部は壊滅的な打撃を受けたが、生き残った縄文人たちは、①南西諸島経由で、その先の長江エリアに逃れたり、②東に逃れて関東や東北に居住する様になった。
一方で、温暖化が進み、縄文海進が起きると内陸部へと居住エリアを移動させながら、定住を進めていく。この頃の植生は東北地方でも広葉樹林のブナ林などが広がっていたと考えられている。
この時代が縄文時代の最盛期で、三内丸山遺跡(青森県)や岡田遺跡(神奈川県)といった東日本を中心に大規模な集落を形成していた。長い年月をかけて、鬼界カルデラ噴火によってダメージを受けた地域にも徐々に人口を増やしながら、原始国家としての基礎を築いたと、当チャンネルでは考えている。
独自仮説:縄文人は①南西諸島・長江地域と②日本列島の東北・関東に分割された
縄文時代③(5000年前ー3000年前)
東北や関東のエリアで寒冷化が進み、植生の変化が起きると、縄文人の生活サイクルを維持できなくなる。大規模な人口減少が発生すると食糧難を回避するための試みとして、南西諸島経由で長江文明の稲作の導入などが始まった。
独自仮説:長江文明と接触した縄文人は、日本に戻ると初期の稲作を開始した
弥生時代①(紀元前10世紀ー紀元前3世紀)
中国で春秋戦国時代が始まると、中国内の動乱を逃れる人々が日本列島や朝鮮半島南部に流入してきた。この人口流入によって日本海沿岸が発展する。当チャンネルでは、仮に日本海沿岸経済圏と呼ぶ。日本列島の日本海側の縄文人は朝鮮半島南部に移民してきた人々と交流する中で、勢力を拡大して出雲王朝を建てた。
出雲王朝が栄えた日本海沿岸経済圏は、北部九州から山陰地方、朝鮮半島南部一帯のエリアで、春秋呉の遺民をはじめ、始皇帝の中華統一で難民となった人々、記録に残っているところでは、斉人徐福の一団などがそれに該当すると考えている。
- 独自仮説:初期の日本海沿岸経済圏は春秋呉や斉人徐福などの難民(スサノオA)を中心に形成
- 独自仮説:日本海沿岸経済圏は日本海側の縄文人(大国主)と合流して出雲王朝に発展
弥生時代②(紀元前3世紀ー紀元前2世紀付近)
出雲王朝が国内の覇権を握る中、元々国内で主導権を持っていたはずの太平洋側の縄文人は長江エリアの楚や越と南西諸島経由で交流を深める。楚や越の軍事的背景(武甕槌)をもって、出雲王朝から覇権を取り返す。饒速日王朝を建国。
大陸側では、前漢が成立した時代。冒頓単于による匈奴の影響が朝鮮半島まで及んだ時代であったと考えられる。日本列島に馬が入ってきたのは、古墳時代とされているが、実際はもう少し早い段階で日本海側に馬が流入していた可能性が考えられる。その理由としては、長髄彦系(饒速日朝の有力氏族)は蝦夷の前身であると考えているが、蝦夷は騎兵集団であったとの伝承もあるため。
- 独自仮説:高天原は長江文明と仮置き
- 独自仮説:太平洋側の縄文人は天孫族として長江文明の軍事力を背景に国譲りを迫る
- 独自仮説:武甕槌は太平洋側縄文人とともに軍事拠点を関東や東海に作る
- 独自仮説:初期の王朝は太平洋側の縄文人のリーダー(饒速日)が王として就任する
- 独自仮説:出雲王朝は北部九州の覇権を失い、現在の出雲一国の支配になる
- 独自仮説:北部九州は日本海沿岸の中心地として独立勢力が割拠する状況となった
- 独自仮説:日本列島への馬の流入は饒速日朝の時代に起きていた
弥生時代③(紀元前2世紀付近ー2世紀頃)
長江エリアに何らかの理由(人質として送られた?)で入っていた、太平洋側の縄文人の王族(スサノオB)が、楚ないし越の王女と婚姻して生まれた子孫(邇邇芸命)が南西諸島経由で高千穂(宮崎県)に戻ってきた。
日本に基盤の無い邇邇芸命は、まず初めに太平洋側の縄文人の有力者である大山祇と婚姻を結び、支持基盤の強化に努める。長男のホデリ(海幸彦)は熊襲(熊楚)として鹿児島付近に定着し、三男のホオリ(山幸彦)は北上して大海祇=日本海側縄文人(スサノオA)との婚姻関係を深めていく。
ウガヤフキアエズの代に、九州における支持基盤を確固たるものにすると、その次の代である、五瀬命と磐余彦らの兄弟が東征を開始し、饒速日系から王朝の権限を奪取する。
神武天皇(磐余彦)の即位以降は、大和系の豪族との婚姻(初期の皇后は磯城の豪族が中心)でヤマト王権の基盤を作り上げていく。
一方で、ホデリ系は南部九州で熊襲(熊楚)となり、北部九州には伊都国(吉野ヶ里)の国家が作られた。
- 独自仮説:邇邇芸命は縄文の王子(スサノオB)と楚の王女(アマテラス)の子孫
- 独自仮説:ホデリ系は熊襲(狗奴国->熊楚)として楚を継承
- 独自仮説:ホオリ系はヤマト王権を築いた。神武天皇の即位は紀元前80年から紀元0年頃
- 独自仮説:長髄彦の一族は、東北に逃れて蝦夷となる
古墳時代①(2世紀付近ー4世紀頃)
後漢書の時代
奴国は、後漢王朝の朝鮮半島進出に伴い南部朝鮮の権益を確保するために、大和王権とは個別に後漢に朝貢を行う(漢倭奴國王:西暦57年)。日本海沿岸の経済力を背景に大和王権から代を重ねるごとに独立性が高まっていく。
独自仮説:奴国は狗奴国(熊襲)の北九州における拠点。邇邇芸命系の兄の系統として大和王権と対立した
魏志倭人伝の時代
やがて、北九州の奴国(熊襲)と大和王権(邪馬台国)との間で衝突が起きると日本中を巻き込んだ内戦状態となる(倭国大乱:孝元天皇から崇神天皇の時代)。四道将軍による征伐などで、最終的に勝利した倭国は中央集権を強化するために、孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)を祭祀王として担ぎ、宗教の統一を行った(神道の統一)。倭迹迹日百襲姫命が崩御した後、再び内乱となる。豊鍬入姫命(台与)を祭祀王に就任させ、内乱を収める。
当チャンネルでは、魏の使者は日本海沿岸経済圏の玄関口である、北九州の伊都国までしか来ていなかったと考えている。当時、魏と大和王権の関係は、朝鮮半島の権益を巡って微妙な関係にあったと考えられるため、首都である纏向に魏の使者を案内することも、その正確な場所を伝えることも、安全保障上の懸念からしなかったと考えられる。そのため、魏志倭人伝の伊都国以降の場所は不正確な情報になっていると考えている。
当チャンネルでは、四道将軍の中で大彦命が最も重要な人物であると考えている。※大彦命は孝元天皇の第一皇子で、越国造と筑紫国造の祖となった人物。
- 独自仮説:倭迹迹日百襲姫命が初代卑弥呼として神道の統一を行なった
- 独自仮説:邪馬台国の政治の中心は纏向、経済の中心は吉野ヶ里にあった
古墳時代②(4世紀付近ー6世紀頃)
崇神天皇以降
垂仁天皇以降は、各地に有力豪族や大王の一族を国造として配置し、中央集権化を進める。この頃の皇后には、四道将軍の一族が選ばれている。
景行天皇の時代には日本武尊がさらに領域の拡大を行った。日本武尊の子である仲哀天皇は熊襲を征伐のため、親征を行う。①なぜわざわざ親征したのか?②神功皇后が随伴したのはなぜ?③神功皇后の神懸かりの意味は?この大王親征は不可解な点が多いが、ひとまず、以下のように仮説を立てておく。
- 独自仮説:皇室の正当性を争う戦いのため、熊襲は大王が親征する必要があった
- 独自仮説:神功皇后は祭祀王であり、重要な戦いのため随行した
- 独自仮説:大彦命の子孫である筑紫国造は熊襲征伐よりも朝鮮の権益確保を優先した
応神天皇の謎
仲哀天皇は暗殺の可能性もあるが、ひとまず、置いておく。中継ぎとなった神功皇后は武内宿禰や住吉三神とはかって、三韓征伐を実施する。神功皇后がお腹の応神天皇と共に自ら参陣したと書かれているが、実際は武内宿禰らの中央軍と住吉三神による征伐だったかもしれない。
ここで、不思議なのは、この当時の筑紫国造について、大彦命の子孫であることが言及されているのみであることだ。これは、応神天皇の代で、北九州の豪族による王朝交代が起きたことを隠すためとみることもできそうだが、当チャンネルでは、筑紫国造は実際に大彦命の子孫であり、崇神天皇以来の男系子孫ではないが、応神天皇は孝元天皇の男系子孫であると考えている。
かなり大胆な想像しているが、応神天皇は仲哀天皇の子ではなく、大彦命の系統である筑紫国造の子孫であると考えている。大雑把な理由として、①神功皇后や武内宿禰らが中央に戻った際に仲哀天皇の皇子と後継争いをしていることや、②神功皇后の妊娠期間が異常に長いこと、③応神天皇は皇后を内廷皇族から取ることで中央の血筋に近づこうとしていることなどが挙げられる。
さらに、天皇の諡号についても、崇神天皇は日本統一を行なった天皇であるにもかかわらず、「祟」という文字が使われている。他に「祟」という文字が使われたのは、崇峻天皇(蘇我馬子によって暗殺)と崇徳天皇(讃岐に流されて崩御)が知られているが、いずれも非業の死を遂げている。もしかしたら、崇神天皇の血筋は仲哀天皇で途切れ、孝元天皇の第一皇子である大彦命の系統に入れ替わったことを暗に示しているのかもしれない。崇神天皇が万世一系の詔を発したとの記録が残されていることも、何かを感じさせる。
ここからは、さらにトンデモ度合いが高まる妄想だが、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇の関係については、次のような関係かもしれない。①孝元天皇と開化天皇は親子ではなく、姉弟。②崇神天皇は孝元天皇の息子で大彦命の弟。③開化天皇は卑弥呼の存在を隠すために作られた天皇。各天皇の即位年の干支や卑弥呼の生没年などでパズル遊びをすると、なんとなくそんな気がしてくるというだけの理由である。ただ、崇神天皇は祟られないように鎮めたい天皇であるとすると、崇神天皇が妙に偉大な天皇として描かれていることにも納得感はある気もするし、孝元天皇が孝行の元という諡号を贈られたのも、大彦命の系統の元は孝元天皇であることを示唆しているようにも見えてくる。
さて、大彦命の子孫であれば男系天皇の血筋は保たれているのに、その出自を隠した理由についてですが、より正当な血筋の後継者からの簒奪があったことがタブーとなっており、それを隠したかったのかもしれない。日本書紀や古事記が編纂された時代は、儒教が大陸から入ってきた頃であることや、記紀では、出雲国譲りや饒速日命からの王朝交代があった場合は、その内容を明示している。そのことからも、男系相続は保たれていたと考えるのが自然と思われる。
応神天皇の出自については、少なくとも皇族である大彦命の男系子孫を神功皇后の養子としたか、神功皇后が筑紫国造を再婚相手として選んだかのいずれかであると考えている。
- 独自仮説:応神天皇は大彦命の系統。孝元天皇の男系子孫。
- 独自仮説:神功皇后は朝鮮半島に渡っているなら、応神天皇は養子。渡っていないなら神功皇后は大彦命の系統と再婚して応神天皇を身籠ったのかもしれない
仁徳天皇以降と倭の五王
仁徳天皇は応神天皇の皇子であるが、即位を躊躇している。これは、応神天皇の出自について、皇族としての血筋が遠いことを懸念しての措置だったと考えられる。一方で、仁徳天皇は、武内宿禰の孫を皇后としていることから、この時期の実質的な中央の権力者は武内宿禰の一族だったと考えられる。
また、倭の五王については、歴代天皇の年代と比定ができずに、混乱の元となっているが、当チャンネルでは、倭の五王は天皇ではなかったと考えている。応神系の出自と考えられる筑紫国造ないし、当時の権力者だった武内宿禰が倭国王を名乗って、大陸の交易や外交を取り仕切ったものと考えられる。足利義満の日本国王の称号のようなものではないだろうか?
- 独自仮説:応神天皇の時代以降、武内宿禰の一族が中央貴族の中心となる。
- 独自仮説:倭の五王は、武内宿禰の一族か、筑紫国造が便宜的に名乗ったもの。
古墳時代③(6世紀付近ー7世紀頃)
継体天皇
継体天皇は応神天皇の五世孫で越国から来たとされる。越国造は大彦命の後裔であるため、そのつながりで応神天皇の子孫も越国に入ったのかもしれない。継体天皇も内廷皇女を皇后として迎えている。
ここで、先ほどの応神天皇の出自の仮説に話を戻すと、筑紫国造が応神系の実家だとすれば、中央にそれほど血筋も近くない、継体天皇に対して対抗心を持った可能性は否定できない。その反抗心が筑紫磐井の反乱を引き起こした可能性もゼロではないと思われる。
継体天皇は越国出身であったため、東北方面の権益拡大には成功したが、磐井の乱などによって、朝鮮半島の政策は失敗する。
朝鮮半島の権益を失う。仏教伝来。
継体以降、朝鮮半島の政策はうまくいかず、欽明天皇の時代には、ついに任那を失陥してしまう。敏達天皇の代になると任那の直接統治を諦め、新羅と和平を結び、経済的な権益を優先した政策に切り替える。物部守屋が大連、蘇我馬子が大臣として仕えた時代で、蘇我馬子の崇仏派と、物部守屋や中臣氏の廃仏派の対立が始まる。
敏達天皇は廃仏派であったが、跡を継いだ用明天皇の母親は蘇我馬子の姉であったため、蘇我氏との繋がりが強く、崇仏派の勢いが増した。蘇我氏と物部氏の対立が深まると、丁未の乱に発展し、崇仏派の蘇我氏が勝利を収める。
蘇我氏の台頭と遣隋使
用明天皇の後を継いだ、崇峻天皇の母親も蘇我馬子の姉妹であったが、崇峻天皇は蘇我氏とは距離を置いた。そのことで蘇我馬子に警戒されて暗殺されてしまう。
推古天皇の時代になると、厩戸皇子が摂政となり、大和王権の大王として初めての遣隋使を送るなど中華との積極的な関係を結ぶようになる。この背景として、倭の五王を通じて国交を結んでいた中国南部の王朝が滅びたため、朝鮮半島南部の権益を失わないために、直接、隋と交渉する必要が生じたものと考えられる。当時の国際情勢として、隋も朝鮮半島北部の高句麗と対立していたため、日本との同盟関係にメリットがあったとも考えられる。
乙巳の変・大化の改新・白村江の戦い
厩戸皇子が薨去し、蘇我馬子も薨去、推古天皇も崩御すると、舒明天皇、次いで皇極天皇の代となり、蘇我蝦夷・入鹿親子が栄華を極める。蘇我親子は初の遣唐使を派遣するなど、大陸との外交関係を重視する政策を進めたが、中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターによって、殺害される(乙巳の変)。
そのまま大化の改新が始まり、日本の律令制の整備が進んで行った。
一方で、朝鮮半島では新羅と唐の連合によって百済が滅ぼされると、百済の遺民の要請で日本は軍を派遣する。しかし、百済奪還の戦い(白村江の戦い)に敗北。日本は完全に朝鮮半島での権益を失うことになる。
中大兄皇子が母親である斉明天皇の跡を継いで、天智天皇として即位する。
まとめ
日本列島に人が住み始めてから、天智天皇の即位するまでを当チャンネルでは古代と考えている。今回は駆け足で仮説を立てながら、古代の全体像をイメージしてみた。次回以降は、個別の時代の状況についての仮説検証を進めていきたいと思う。
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